翌朝
  昨晩一睡もしなかったアレクサーは、自室の窓からブルーグラードの朝日を見上げた
  窓の脇に位置する彼のベッドにはが横たわり、静かに寝息を立てている
  実に安らかな表情のの頬にアレクサーはそっと唇を落とし、窓に凭れてその両の腕を前に組んだ


  昨日、あれからとナターシャの許へ戻ったアレクサーは、二人にありのままの事実を語った
  …嘘を吐く事など彼には到底不可能であり、また彼が実際に見た事を気の利いたオブラートに包んで語るのはもっと難しい
  故に、出来るだけゆっくりと、冷静に話す事に尽力するだけで精一杯だったのだが、アレクサーのその努力は残念ながら実を結ぶ事は無かった

  『その場に居たNGOメンバー全員の死亡』に話が触れた刹那、アレクサーの目の前でとナターシャはほぼ同時に崩れ落ちた
  二人とも、あまりのショックに気を失ってしまったのだ
  …同じ志を持ち、家族の様に慣れ親しんだ人達を一時(いちどき)に喪ったのだ、気を失わない方がおかしいに決まっている
  しかも、許されざるその犯人は自分達の関係者であり、その上自分たちだけはこうして生き残ってしまったのだから、その衝撃は容易に量るべくも無い
  無論、アレクサーが現場に確認に赴く前から、自分達のNGOが今回の爆発の被害者であり、犯人がセルゲイ一派である事はにもナターシャにも判ってはいた
  だが結局、二人の前に実際に突き付けられたのは最低最悪のシナリオであった
  アレクサーは『爆発と火災によってメンバー全員が死亡した』と言う結果としての事実を二人に語りはしたが、
  彼が目の当たりにした例のリーダーの一件――爆発後の生存者をセルゲイが惨殺した事である――は敢えて伏せておく事に決めていた
  嘗ての部下の陰惨窮り無い蛮行の話で恋人と妹の耳をこれ以上汚したくない、と言うのがアレクサーの本音且つ願望であった
  …尤も、アレクサーがその語りたくない話を伏せる前に二人は相次いで気を失ったので、話を伏せる必要自体が無くなってしまったのが実際の所なのであるのだが

  夜の闇にとっぷりと飲み込まれたガルボイグラードの路上で、アレクサーはとナターシャの身体を真っ直ぐに横たえた
  なるたけ頭部が高くなるように、二人の鞄をそれぞれの頭の下に敷き、一方のアレクサーはその場に立ったまま二人と周囲の様子を窺い続けた
  …流石のアレクサーでも、二人を同時に抱えて歩くのは無理があったからである
  その状態で凡そ10分が経過したあたりで、が先に意識を取り戻した


  「…アレクサー…、私、また気を失ったの…?」

  「前回のは俺がやった事だよ。兎も角、気付いて良かった。」


  その場に半身を起こしたは、自分の傍らで横たわるナターシャに気付き、その表情を俄かに掻き曇らせた


  「夢ではない…って事よね。」

  「そうだな。…残念ながら。、立てるか?」


  アレクサーの手を借りてはその場に立ち上がり、ブルーグラード上空遥かの星々を見上げた
  爆発と火災の事などまるで嘘であるかの如くにガルボイグラードの空は今は静まり返り、星の瞬きだけが煌々と夜空を彩っている

  …本当に嘘であったなら、どれだけ良かっただろう。

  のその苦い思いを察したアレクサーは、恋人の身体を無言でそっと抱き締めた
  アレクサーの胸の中で、はようやく声を上げて泣く事が叶ったのだった
  一頻り泣き終えた後で、アレクサーは今だ醒めやらぬ妹の身体を抱き抱え、と共に暗い家路を一歩一歩、歩き始めた



  帰宅した二人はまずナターシャを寝室に運び入れた
  妹の身体をアレクサーがベッドに横たえ、がその上から布団をそっと掛ける
  このまま朝まで眠らせておいた方が良いだろうと判断したアレクサーは、掌をそっと妹の頭上に翳した
  アレクサーの掌から白い光が生まれると小さな球を象り、やがて消えた
  は何度目にしても驚きに慣れる事を知らないと言った風情で、ナターシャを起こさぬ様に小声でアレクサーに尋ねた


  「ねえアレクサー、今のは一体何で、何をどうしたの?」

  「…これは『癒し』の能力の一種で、ナターシャの眠りを少し深くしたんだ。このまま朝まで目覚めない筈だ。」

  「…本当に、貴方は不思議な力を持っているのね、アレクサー。こんな能力を持つ人達がこの世の中にまだまだ沢山居るなんて、何だか信じられないけど…。」


  ふー、と鼻から感慨深げな吐息を洩らし、はナターシャの健やかな寝顔を見詰めた

  …今は良くても、明日の朝にまた思い出してショックを受けるのでしょうね、ナターシャ…。その時は、私とアレクサーでナターシャを支えてあげなきゃ。


  「明日の事は明日考える事にして、取り敢えず今夜はもう休もう。。」


  の沈んだ横顔からその心情を酌んだアレクサーは、恋人の背にゆっくり腕を回してナターシャの部屋を後にした
  以前、アレクサーとナターシャが物置代わりに使っていた部屋を、はここ一ヶ月の間自室として使っている
  その部屋のドアノブを握ったの手に、アレクサーは上から手を添え、きゅっと握った
  アレクサーの体温がの手から全身に拡がる
  そのまま、アレクサーはもう片方の腕での身体を引き寄せ、己の胸の中にを仕舞い込んだ


  「…今夜は俺の部屋においで。」

  「え………?」


  の心臓が、この事態の展開に早鐘を打ち始めた
  己の浅ましい鼓動をアレクサーに気付かれたくないは、アレクサーの厚い胸板の中でスー、ハーと必死に深い呼吸を繰り返した
  恋人のその仕草にアレクサーはフッ…と笑いを洩らし、の頬に掌を添え上向かせた


  「心配しなくても良い。君が望むまでは、俺は君に何もしないと言っただろう。
   …尤も、、君が今それを望んでいるのなら話は別だが。」


  些か意地の悪い笑いを浮かべたアレクサーの顔を見上げ、はカッ…とその頬を染めた
  何も言い返せずにいるにアレクサーはゆっくりと己の唇を重ね、少し時間をかけてのそれを吸った
  の唇から滑り込んだアレクサーの舌がの舌を絡め取る音が、静まり返った夜の廊下に響く
  思考回路に霞が掛かり何が何だか理解出来なくなって来たは、今にも崩れ落ちそうな己の身体をアレクサーに凭れ掛けた
  アレクサーは自分の胸に埋められたの耳元にその唇を寄せると、低い声で一言囁いた



  「……望むか、。」



  は何も言えなかった
  全身を駆け巡る恐ろしい程の官能の波に悶え、はただゆっくりと一つ頷いた
  見事なまでの紅に染め上げられた恋人の頬にアレクサーは僅かにその目を細め、徐にの身体を抱き上げると自室の扉を開いた







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                     絆(18歳未満の閲覧を禁じます)




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  が起きて来たのは、昼を回りかけた頃だった
  …アレクサーに術を掛けられたナターシャは、まだ目覚めない
  それぞれの自室のある二階からが降りて来る足音がアレクサーの耳を掠める
  数時間前までの状況が状況だけに、は何やら気恥ずかしい思い一杯でおずおずとリビングに足を踏み入れた
  テーブルでコーヒーを飲んでいたらしいアレクサーは徐に立ち上がると、ゆっくりとの方へ数歩、歩いた


  「お早う、。コーヒーを入れるから椅子に座ると良い。」

  「あ…お早う、アレクサー…。その…アレクサーは少しは寝たの、あれから…?」


  アレクサーはの横をすい、と通り抜けると、サーバーからカップに一杯、コーヒーを注いだ
  が椅子に腰を下ろすと、アレクサーはその前にカップを置き、後ろからを優しく抱き締めた
  の耳元で、アレクサーが低く囁く


  「寝られる訳無いだろう。…、君を初めて抱いたのだから。」


  がカップに伸ばし掛けていた手を思わず引っ込めると、アレクサーはクックック…と小声で吹き出した


  「君のそんな所が俺には面白い。」

  「ア…アレクサー。…もう、人の事バカにして。私の方が年上なのに………。」


  のその言葉は、終わりに近付くほど呟く様な小声になった
  が憮然とすると、アレクサーは後ろから抱いたの首筋に一つキスを落とした
  …其処には、既に昨晩、アレクサーによって真紅の花が刻み込まれている


  「そうだな。確かに何時もは君は年上かもしれないが、昨夜はあまりそんな感じがしなかったのは何故だろうな?」


  再度意地の悪い笑いをアレクサーは洩らし、一方のは益々憮然としてコーヒーカップに逃げた
  アレクサーはそんなの耳元に「、愛している」と一言囁いた後、に口付けた
  …ごく軽く交わされたキスは、コーヒーの香ばしい味がした
  アレクサーはそのまま玄関へと一旦、その姿を消した


  「アレクサー、…どうしたの?」


  ようやく落ち着いて自分のコーヒーを一口含んだが、対面に座ったアレクサーを見る
  アレクサーのその表情は見た事も無いほど厳しく、眉間に深い皺を寄せている
  アレクサーはその手に新聞を握っており、第一面の記事部分を無言で凝視していた
  ロシア語の解らないは恋人が食い入っているその記事に何と書いてあるのか理解できなかったが、其処に大きく掲載されている写真だけは理解できた


  「それ…昨日の事故現場の写真……!?」


  アレクサーは無言で一つ頷いた
  の視界に入ったのは、通い慣れた風景と跡形も無く崩れた職場との奇妙な組み合わせの写真だった
  昨日の現場を実際に目にした訳ではないに取って、それは昨日アレクサーの口からNGO全壊の報を聞いた時と同じ…いや、それを上回る衝撃だった
  それ程に、視覚的な情報の持つ威力は計り知れない
  流石に遺体などの写真は載っていなかったが、この写真の現状を見るだけで他のメンバー達がどんな最期を辿ったかはの想像に難くない
  は溢れ出る涙を必死で堪えようとしたが、無理だった
  アレクサーが入れてくれたコーヒーに、ぽつりぽつりとの涙が溶けて行く
  アレクサーには掛ける言葉が無かった
  今は、何を言っても気休めにしか聞こえないからである

  暫くは泣いていたが、やがて少し落ち着きを取り戻して目元を袖で拭った
  嗚咽が弱くなり話す事が可能になった頃、は目の前のアレクサーに訊ねた


  「アレクサー、教えて。その記事には何て書いてあるの?…事故?それともテロ?」


  のその問いに、アレクサーは何も答えなかった
  ただ、恐ろしく苦渋に満ちた表情でと新聞を見比べている


  「何と書いてあっても私は平気だから。だから教えて、アレクサー。」


  の重ねての懇願にアレクサーは暫く無言を貫いていたが、やがて重々しくその口を開いた


  「今回の爆発は事故ではなく、NGOを標的としたテロリズムだと。そしてその犯行声明がブルーグラードの新聞社に出された。
   その声明を発したのは………アレクセイ・レオノフ。つまり俺だと書いてある。」

  「な…何ですって!?」


  は思わずその場に立ち上がった
  その拍子にカップの中のコーヒーが少し外に零れ、の服に琥珀色の染みを作る
  アレクサーは手にしていた新聞を静かにテーブルに置くと、両手の指を前に組んだ


  「無論、俺は犯人ではない。」

  「そんな事は解ってるわ。だって、貴方は昨夜消火に当たったんじゃないの!それが犯人だなんて…。」

  「いや、昨日はあくまでも俺だと判らない様に自分自身に少々の細工をした。だからあの場の誰も気付いてはいない。
   …問題は其処ではないんだ。」

  「でも、こんな犯行声明を出すなんて…。」


  アレクサーは渋い表情に更に皮肉を込めて笑い、一つ溜め息を落とした


  「生憎、俺には父親殺しの前科があるからな。一度轟いた悪名はなかなか払拭できないものだ。声明を信じる人間も多いだろう。
   俺の一番痛い所を一番痛い方法で突いて来るのがセルゲイの手口だ。」

  「でも、セルゲイは何故こんな回りくどい真似を?」

  「無論、俺を引き摺り出すためだ、表舞台にな。あいつに取って俺はまだまだ利用価値があると言う事だ。」

  「勿論、貴方はその誘いには乗るつもりはないんでしょう、アレクサー?」

  「…ああ、以前もはっきりとそれは断った。………だが。」


  言葉尻を濁したアレクサーを、は覗き込んだ
  アレクサーは組んだ両手の指に顔を乗せて暫く考え込んでいたが、少し顔を上げて窓の外を睨み、突然立ち上がった


  「、すまないが少し外出して来る。…留守中、おそらく君達に危険が及ぶことは無いはずだ。
   すぐ帰るから、ナターシャの事を頼む。」

  「待って、アレクサー!何処に行くの?私達には危険が及ばないって…まさか、セルゲイの所に行くつもりなの?」

  「…すぐ帰る。だから此処で二人で待っていてくれ。」


  の問いには答えず、アレクサーは上着を片手に持つと玄関から出て行った
  街角へと消えて行くアレクサーの背中を、は不安な面持ちで窓辺からただ見送るだけだった





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  半分昏睡状態にあったナターシャが目を覚ましたのは、兄アレクサーが家から姿を消した二時間後の事だった
  目覚めたナターシャは、ベッドに横たわる自分が昨日の服装のままである事にまず最初に気付き、それを手掛かりに昨日の出来事を思い出した

  …嘘じゃないんだ…昨日の事は……。

  ベッドに寝たままナターシャは自分の顔を両手で覆い、小声ですすり泣く
  一階のリビングに一人で座っていたはいち早くその泣き声に気付き、二階のナターシャの部屋の前に上がって来た
  コンコン、と二回、がドアをノックする


  「ナターシャ。…入っても良い?」

  「あ………はい、どうぞ。」


  ナターシャは慌てて目元の涙を拭うと身体をベッドから起こした
  そっとドアが開き、が中に足を踏み入れる


  「ナターシャ、気が付いた?」

  「ええ。」


  ナターシャはベッドの脇に置いている時計をチラリと見て顔色を変えた


  「えっ?2時……!?私、こんな時間まで寝ちゃってたんですか?夜じゃないですよね、まさか。」

  「うーん、流石にこの明るさで夜の2時は無いと思うわ。勿論、時計が壊れている訳でも無いわよ。」


  驚いた顔のナターシャに、はウインクをして見せた


  「とにかくこんな時間だし、お腹空かない、ナターシャ?私もまだお昼を食べてないから、下で食べましょうよ。
   …ボローニャソーセージのサンドイッチもあるわよ。…歩けそう?無理ならこっちに持って来るから。」

  「あっ…大丈夫です。一人で歩けます。」


  ナターシャはベッドから立ち上がり、ドアのノブを握ったの後ろに追い付いた
  背を向けたまま、がその場に立ち止まる


  「…NGOの皆はいなくなってしまったけど、まだ貴女と私がいるわ。私達二人が生きている限り、皆の志は死なない。そうでしょ、ナターシャ?」


  ナターシャはの背中に向けて、無言で一つ頷いた
  は背中でその返事を受け止めると、そっとドアノブを開いた

  リビングに降りて来た二人は、テーブルの前に対面に腰を下ろした
  が一旦立ち、ナターシャにコーヒーを入れる


  「ちょっと待ってね。サンドイッチを出すから。」


  は冷蔵庫からサンドイッチの皿を取り出すと、テーブルの真ん中に置いた
  カップを持ったナターシャが一つの事に気付き、に尋ねる


  「さん、兄さんは…?まさかまだ寝てる訳はないでしょうし…。」

  「……うん、それなんだけどね。『ちょっと外出して来る』って出て行ったのよ。そうね、二時間前くらいかしら。
   すぐ帰って来るから待っていてくれ、って言ってたけど…。」


  の歯切れは妙に悪い
  ナターシャはすぐにその事に気付き、周囲を見回してテーブルの端に置かれていた新聞に目を留めた
  第一面を飾る写真に、ナターシャの表情が見る見る強張る


  「……これ、昨日の……。」

  「うん。その写真はあまり見ない方が良いよ、ナターシャ。」


  ナターシャは写真から目を逸らす様に記事本文を読み始めた
  暫く記事を読み進めた所で、ナターシャは新聞を握る手を俄かに振るわせた


  「昨日の事故の犯人が兄って……これはどう言う事でしょうか?この犯行声明は一体…?」

  「そうなのよ。その記事を読んでアレクサーは出て行ったのよ。…多分、真犯人の所へ。」

  「真犯人……?」

  「セルゲイよ。アレクサーを表舞台に引っ張り出すための犯行だと、アレクサーは考えているみたい。…私もそう思う。」


  が溜め息を落とすと、ナターシャも一旦口を噤んだ
  二人の間を、コーヒーの白い湯気がふわふわと横切る
  次に沈黙を破ったのはナターシャだった


  「…兄さんは、セルゲイさんの所へ何をしに行ったのでしょう?」

  「アレクサーはこの新聞を見て何か考え込んでいたから、私も良くは解らない。
   ただ、セルゲイに何か話があるみたいな感じだったわ。」

  「…こんな記事を書かれては、兄さんはまた武力を使ってしまうかもしれない。そうなったら…。」


  ナターシャが殊更深く愁眉を寄せるのに気付いたが、少し首を傾げる


  「……アレクサーはセルゲイに話をしに行っただけでしょう?自分の名前で犯行声明を出された事で。
   その事が武力を使う事に繋がるとはあまり思えないのだけれど…。」


  のその言葉で、ナターシャはがロシア語を読めない事を思い出した


  「さん、兄はこの記事に書いてある事について何処まで話してくれましたか?」

  「…え?だから、今言ったアレクサー名義の犯行声明の事でしょう?…もしかして、まだ何か有るの?」


  ナターシャは新聞を半分に折ると、第一面の記事のかなり後ろの方の一部を指差した
  無論、本文はキリル文字で書かれているため、には理解できない


  「此処の部分に、こう書いてあります。『今回のテロの爆発物として使用された爆弾は極めて小型の物であり、
   被害にあったNGOが最近調査用に使用し始めた小型紫外線装置を模した物ではないかと考えられている。
   また、犯行声明の首魁であるアレクセイ・レオノフの実妹と女性関係者がこのNGOに所属している事も明らかになっており、
   この二名(いずれも現在行方不明)が事件に関連しているものとして国際警察機構が今後、ロシア政府に捜査を要請する可能性も示唆されている。』」


  ナターシャの説明を聞くにつれ、の顔は蒼白に染まった


  「な…何よ、それ!?それって、つまり私とナターシャがアレクサーの手先としてNGOに潜り込んで、爆弾を仕掛けたって事なの?」

  「そう…みたいですね。この書き方だと。あるいは、私たちも行方不明って事ですから、自爆テロでも決行したと考えられているのかもしれないですが。」

  「どちらにしても、この記事を鵜呑みにすればアレクサーの逃げ道が殆ど残されていないって事よね。」

  「だからこそ、兄さんがセルゲイさんの所に行った本当の狙いが気に掛かるんです。
   兄さんは自分自身についてはそれこそ何を書かれても気に留めはしないでしょうけれど、私やさんまで巻き込むような目論見には黙っていないのではないかと思うんです。」


  ナターシャに言われるまでも無く、その点はにも心当たりがあった

  …アレクサー、どうか無茶な真似はしないで…!


  「…大丈夫よ。きっとアレクサーは話し合いに行っただけだから……。すぐ帰ると言っていたのだし。」


  言葉とは裏腹に、は眉間に深い憂悶の皺を刻み、手元の新聞の写真に再度視線を落とした





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  東シベリア・コホーテク村。
  ブルーグラードから凡そ西へ200kmに位置する小さな集落である
  人口の少なさではブルーグラードと良い勝負のこの村は、自治領であるブルーグラードとは異なり、紛う事なきロシア本国領である
  その村外れに粗末な小屋が一軒、人目を憚る様に立っている
  小屋の中では、二人の男が暖炉の火を前に厳しい面持ちで議論を交わしていた


  「…やはり、俺が睨んでいた通りになったな。」


  新聞から一旦目を離し、男は徐に立ち上がると窓辺にその長身の背を預けた
  窓枠に寄りかかったその拍子に、男の青銀の長い髪がさらりと揺れる
  胸の前で両腕を組んだ青銀の髪の男は、ソファに腰掛けた男をちらりと見た


  「あの小僧が遂に尻尾を出した、と言う訳だ。」

  「…貴方はこの記事は真実だと思うのか、カノン。」


  ソファに腰掛けた男は、手にしたカップから一口コーヒーを口に含み、カノンを見上げる
  男に異論を挟まれた形のカノンは口元を僅かに歪め、さも面白くないと言った風情で吐き捨てた


  「事実も何も、ブルーグラードでテロがあったのは動かし難い現実だ。あの小僧が絡んでいない筈がないだろう。
   …尤も、カミュ、お前には異論があるようだが。」


  カミュと呼ばれた赤毛の男は俄かに溜め息を落とし、カノン同様に腕を組んだ


  「貴方と違い、確かに私自身はアレクサーをマークする立場ではない。だから彼がどれほど危険な香りを放っているのかについてはよく解らない。
   …だが、貴方の言い分を100%認めてしまうと、同時にも犯人の一人であると認める事にはならないだろうか?」


  その一言に、カノンは苦虫を噛み潰した様な表情でカミュをギロリと睨め付けた


  「…はあの小僧に騙されているだけだ。それ以上でもそれ以下でも無い。」


  …らしくない。

  カミュは正直な所、カノンの一連の態度に違和感を覚えていた
  無論、聡いカミュの事である。を挟んでカノンとアレクサーの間に何かあったのだろう事だけは薄々感付いてはいる
  …そして、その点に関しては自分に一切介入を許す気は無い、と言う事も
  であるが故に、カミュは矛先を微妙にずらしながら話を進める必要があった


  「…だとして、女神にはどのように言上仕(つかまつ)る心づもりか?」

  「それはあの小僧の事か?それともの事か?」

  「…その両方で。」


  カノンは苦々しい顔のまま暫く無言を貫き、組んでいた腕を解いた


  「あの小僧が部下共に命令してやらせた事だ。は騙しこまれているだけで、事件には何も関与してはいない。」

  「何故、そうだと?」

  「俺は数ヶ月と暮らしていた。がNGO活動に対して邪な考えを抱いていない事くらい解る。
   あの小僧に命令された所で、にはNGOを爆破するなど出来る訳がない。
   おそらくはからNGOの情報を聞き出していたのだろう。それだけだ。」

  「…成程。それで納得した。」

  「…何をだ?」


  カノンの訝しげな視線を交わし、カミュは再びコーヒーを口に含んだ


  「この事件の記事を読んで、貴方がを探しに行こうとしない訳が。安否は判っていると言う事か。」

  「当然だ。行方不明などと書いてあるが、あの小僧がを自爆テロに利用できる訳がないだろうからな。」


  …二人が恋仲だから、だろう。尤も、カノンはその点が一番気に食わないようだが…。

  カミュはそこには言及せず、一つ頷いた
  カノンは窓から背を離し、くるりと身を翻して窓の外を見上げた


  「さし当たっては、事件の概要と被害、小僧が首謀者とみなされている点、は無事でブルーグラードに潜伏中と直々に報告申し上げる予定だ。
   その上で女神がどう判断を下されるかは、俺は与り知らぬ事。」

  「…そうか。それも良いだろう。……しかし。」


  カミュは新聞を手に取ると、改めて溜め息を落とした
  カノンがちらりとカミュの横顔を一瞥する


  「しかし、NGOが被害者とあっては、国際問題になるのは時間の問題だな。…面倒な事になりそうだ。」

  「その点に関しては俺も同意見だ。」

  「もう一つ、気になる事がある。…ただ、それはロシアに長い事住んでいる私の、ただの気のせいかもしれないのだが。」

  「…何だ。」


  カミュは手にした新聞紙を丁寧に四つ折りにし、表紙を上にして机に置いた


  「…この新聞はロシア本国が出版元だ。当然、当局の検閲を経た後に記事が公になる。
   故に、特に事件性の高い事故や外国関係の情報は記事に起こされるまでかなりの時間を要するのが、残念だがこの国の報道の現状だ。
   だが、今回の事件は昨晩起きたばかりでもうこの様に詳細な記事に起こされている。しかも事件現場はロシア本国ではなく、自治領であるブルーグラードだ。」

  「………ロシア本国が一枚噛んでいると言う事か。随分きな臭い話になって来たな。」


  カノンは左手を顎に遣り、眉間に皺を寄せた


  「あくまでも私の勘の話で申し訳ないのだが。」

  「…いや、此処に長く住むお前の事だから、その指摘はあながち間違っているとも言えんだろう。
   判った。事情が複雑に入り組んでいる可能性も含めて、女神には出来るだけの情報を報告申し上げよう。…無論、早急に。」

  「済まない、カノン。私も此処に残って、少し背景を探ってみるつもりだ。」


  カミュがソファから立ち上がる
  カノンとカミュは互いの顔を見合わせた後、同時に深く頷いた






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